鎌倉殿の13人で大姫はどうなるの?大姫の死因は病死、若き婚約者の源義高(市川染五郎)と死別して、その後後鳥羽上皇(尾上松也)と結婚する?をまとめます。
そこで、大姫の疑問に答えます。
- 大姫は命がけで義高の命乞いをした後どうなった?
- 大姫のキャスト子役は誰?
- 大姫が後鳥羽天皇と結婚する?

大姫の初恋が切なかった!
大姫に幸せになって欲しい!
鎌倉殿の13人の大姫は病死!義高と死別して後鳥羽上皇と結婚する?
鎌倉殿の13人
義高と大姫の悲恋の話…
実は義高が生きているというif展開にならないかな?
義高を討った藤内光澄が処刑されたのは
頼朝の命に背き見逃したからであって、
義高はどこかで隠れて生存
10年後、大姫が出奔し、亡くなった事にされ
二人は隠れ里で幸せになったという筋書き pic.twitter.com/56XO69ZQjC— 藤原史 (@mecky0206) April 5, 2022
源頼朝の娘・大姫(落井実結子)は6歳で、源義仲の息子・源義高(市川染五郎)と婚約しました。
義高は、表向きは婚約者ですが、義仲が頼朝を裏切らないように実際は人質として連れてこられました。
しかし源義高は、毅然とした態度で「父上のためなら、どんな苦労もいといませぬ」と言って、鎌倉行きを承知する。
義高が鎌倉に来ると美しく礼儀正しい、雅な姿に政子だけではなく、大姫の目も輝きます!
大姫は義高のことが好きになります。
その後、父親の義仲は義経(菅田将暉)の策にはまって、額を矢で打ち抜かれます。
父親の義仲が亡くなったとなれば、「父上のためなら、どんな苦労もいといませぬ」と言っていた義高は頼朝を恨みますね。
頼朝の命令で、義高は監禁部屋に監禁されて、討たれる時を待つ。
しかし、政子は大姫のために、頼朝に義高の命乞いをします。
頼朝は、自分も父親を殺されて、同じように恨んでいたので、義高もいずれは自分の首や息子の万寿(頼家)の命を狙うかもしれないと譲りません。
義高も頼朝を決して許さないと怒り、命があるなら頼朝の首を狙うと義時に言います。
そこで政子は頼朝に内緒で、義高を伊豆山権現に逃がそうとします。
北条家の協力の元計画が実行されます。
全成が頼朝に成りすまして、監禁部屋の見張りを騙して、実衣が義高に女装をさせて、八重などの侍女に紛れて御所から脱出しました。
しかし、義高がいなくなったことがバレて、頼朝は見つけ次第首をはねるように言い渡します。
そんな頼朝に大姫は、自分に小刀を突き付けて、命がけでお願いします。
政子も手をついてお願いしました。
その姿に頼朝が折れて、義時に指示を出したとき、藤内光澄が義高の首を持って来ました。
政子が激怒して、藤内光澄は死罪になりました。
大姫6歳の初恋が儚く終わってしまいました。
大姫が後鳥羽上皇と再婚する?
「鎌倉殿の13人」
“大姫” 初公開!#南沙良 pic.twitter.com/RziuMen63E
— 平ちゃんねる (@hiratechantyan) April 1, 2022
1192年後白河法皇(西田敏行)が亡くなると、頼朝は征夷大将軍に任命されます。
鎌倉幕府が成立しました。
歴史で習った「1192いいくにつくろう鎌倉幕府」ですね。
しかし、今では1185年鎌倉幕府成立論が一般的になっていて、
「いいはこつくろう鎌倉幕府」が定番になっています。
1185年は、頼朝が守護・地頭を全国各地に置いて、実質的な支配権を得ていたことから、鎌倉幕府が成立されたと考えられるようになりました。
話を大姫に戻します。
1195年には、奈良の東大寺が15年の歳月をかけて、立て直され完成しました。
再建供養の儀式に参加した頼朝
この時、頼朝は大姫(南沙良)を後鳥羽天皇(尾上松也)と結婚させて、鎌倉と京の結びつきを強くしようと企んでいました。
しかし、大姫は病気で亡くなって、実現しませんでした。
しかも、その4年後の1199年、頼朝は相模川にかけられた橋の落成式の帰りにうとうとして、落馬した怪我が元で53歳で亡くなります。
頼朝の死後、息子の頼家(渡辺大知)が二代将軍になります。
コメント