鎌倉殿の13人の義経の最後は自害で年齢は31歳!しかし、実は生きていたというその後の伝説があります。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で描かれた義経は、戦いの天才だけど、性格が悪い、破天荒すぎるブラック源義経(菅田将暉)でした。

義経って悪者だったの!と驚きましたよね!
義経の最期は、兄の頼朝(大泉洋)と対立して追い詰められます。
そこで、義経の疑問に答えます。
- 義経の最期はどうなるの?
- 義経と頼朝が対立することになったきっかけは
- 義経が自害した年齢は31歳
- 実は、死んでなかった?不死伝説があって、北海道に逃げた?
- 義経の最愛の人・静御前はどうなった?
菅田将暉さんの破天荒な義経は衝撃的で、嫌いになりましたが、面白い!
義経が見られなくなるのは淋しい。
鎌倉殿の13人の義経が自害した最後の年齢は31歳!その後の伝説がある!
義経の最期はどうなるの?
鎌倉殿の13人で、義経は最期自害して、頼朝に首が送られます。
しかし、自害するシーンは描かれなかった。
史実では義経の最期は、正妻・郷御前(里・三浦透子)と4歳の娘と自害したことになっています。
義経の最期までのあらすじ
義経は、京都を追われてから、子供の頃からお世話になっていた奥州の藤原秀衡(田中泯)にかくまってもらっていました。
正妻の里(三浦透子)と一緒におだやかに畑仕事をして、過ごしていました。
頼朝に奥州にいることがバレました。
そんな時、秀衡(ひでひら)が奥州の土地と義経を守るように遺言を残して病死
頼朝は後継ぎの泰衡(やすひら・山本浩司)に義経を差し出すように圧をかけました。
泰衡は、頼朝に攻められたら勝ち目がないので、義経を討つ決断をします。
しかし、それは頼朝の罠でした。
泰衡が義経を討ったら、弟を殺されたと頼朝が奥州を攻めるきっかけになる。

頼朝かなり怖い!!!
一方義経は、全てわかっていて、義時(小栗旬)をこっそり呼んでいました。
しかも義時がわざと静御前の話をして、頼朝への憎しみを大きくしようとしていることに気づいた。
義経は覚悟を決めて、壁のすき間から藤原泰衡(山本浩司)が攻めてくるのを見ます。
義経が31歳の時です。
そして後日、義経の首が頼朝のところに届けられました。
その後、頼朝は計画通り奥州に向かって、藤原氏を滅ぼしました。
その後、実は死んでなかった不死伝説がある
戦の天才の義経には、英雄として語られることが多く、不死伝説もあります。
義経は奥州から逃げて、北海道の王になった伝説があります。
その伝説に基づいて、北海道の平取町には義経神社が創建されています。
頼朝の最後死因は落馬!2代目は頼家で宿老13人が動き出す!!
義経と頼朝が対立することになったきっかけ
1185年、義経と範頼(迫田孝也)の活躍によって、壇ノ浦の戦いで平氏に勝ちました。
しかし、安徳天皇や三種の神器が海に沈んでしまい、宝剣だけは見つかりません。
三種の神器がそろわなかったことで、頼朝は平家が滅んだことを喜べません。
義経は、壇ノ浦の戦いの後、後白河法皇(西田敏行)から、検非遺使(けびいし)に任命されました。
京都を守る警察のような役目で、京都を離れられない。
頼朝は、勝手に任命されたことを怒って、義経を将軍からはずします。
しかも、頼朝と話して誤解を解きたい義経を鎌倉に入れません。
義経の気持ちを頼朝に伝えるために、代筆を頼んだ文で頼朝がさらに怒りをかって、義経は、後白河法皇に仕えて、京で生きることにしました。
頼朝は義経に対して素直に謝れば会ってもいいと思っていましたが、気持ちのすれ違いがだんだん大きくなっていきます。
ここから、頼朝と義経の溝が深まっていきます。
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