山田尚子という才能|京都アニメーションが育てた監督
山田尚子は、京都アニメーション所属のアニメーション監督です。テレビアニメ「けいおん!」(2009年)で初監督を務め、その後「たまこラブストーリー」(2014年)で文化庁メディア芸術祭アニメーション部門新人賞を受賞しました。2015年にはテレビシリーズ「響け!ユーフォニアム」でシリーズ演出を担当し、着実にキャリアを積み重ねてきました。
「聲の形」は、山田尚子にとって長編映画監督3作目となる作品であり、初めてテレビシリーズを挟まない映画作品でもありました。本作の成功により、山田監督は日本アニメーション業界において特に注目すべき存在となり、新海誠監督からは「上品で端正な演出は、真似したくてもとても真似られそうもない」と高く評価されています。
こちらもチェック!
極限値というコンセプト|数学的思考から生まれた演出
山田監督は作品を制作するにあたって、必ず「何かポイントとなるコンセプトを組んでいくこと」を重視しています。そのインスピレーションについては「数学や物理に関する事柄が多い」と述べています。
「聲の形」では、将也と硝子の関係について、劇中でも登場した養老天命反転地の「極限で似るものの家」がポイントとなりました。そこから数学用語で「イコールではないが、無限に同じものへ近づいて行くことを示す『極限値』」がコンセプトとして取り上げられました。この概念は、決して完全には理解し合えないかもしれないが、それでも互いに近づこうとする二人の関係性を象徴しています。
音楽を担当した牛尾憲輔は、山田監督について「コンセプトワークをしっかりやって、登場人物一人ひとりの感情の変化を一歩一歩さらっていく、そんな途方もない作業にほんと愚直に、全力で取り組むタイプの人でした」と評しています。
一人称視点のカメラワーク|主人公の目線で描く世界
山田監督は、カメラアイを特に意識した画作りをすることで知られています。「聲の形」は主人公の一人称で構成された物語であるため、特に一人称視点のカメラが効果的に使用されています。
観客は将也の目を通して世界を見ることになり、彼が心を閉ざしているときには周囲の人々の顔に×印がついて見えない演出が印象的です。そして徐々に心を開いていくにつれて、その×印が外れていく様子が描かれます。このような視覚的表現により、将也の内面の変化が観客に直感的に伝わるのです。
また、足元や手元、視線の先など、細部にこだわったカメラワークは、言葉にならない感情を雄弁に語ります。京都アニメーションの高い技術力と山田監督の類まれなセンスが非常に高次元でマッチしていると評されています。
水・光・生命の描写|世界そのものの肯定
山田監督は本作の映像表現について、興味深い哲学を語っています。
「この子たちは明日を生きるのも辛そうなくらいすごく悩んでいますよね。でも一歩引いて見た時に、その子たちがいる世界ごとはそんなに絶望感がある訳じゃない。ちゃんと生命は宿っていてお花は咲くし、水も湧くし。彼らがいる世界全てが悩んでいたら嫌だというか、彼らがパッと見上げた空は絶対に綺麗であって欲しいと思ったんです」
水だったり空気だったり生命だったり、根源的なものは前向きな感情を持って描きたかったので「ちゃんと綺麗なものとして描こう」と思っていたと述べています。また、見ている方にとっても居心地の良い映画でありたいという思いがあったと語っています。
この哲学は、川の水面の光の反射、花火の美しさ、木漏れ日の表現など、作中の随所に現れています。背景画の美しさは、単なる装飾ではなく、苦悩する登場人物たちを包み込む世界の優しさを表現しているのです。
音楽という重要要素|牛尾憲輔とaikoの貢献
牛尾憲輔の劇伴音楽
音楽を担当した牛尾憲輔は、「speed of youth」をはじめとする61曲もの劇伴を制作しました。サウンドトラックは2枚組122トラックという大ボリュームで、山田監督から「青春の速度をイメージして作られた」と聞いて、青春としての「聲の形」に今一度向き合いたくなったと述べています。
牛尾は「アニメ業界の方では山田監督くらいですね、ベルリンのテクノレーベルの話ができたのは」とコメントしており、音楽に対する山田監督の深い造詣がうかがえます。
aikoの主題歌「恋をしたのは」
主題歌を担当したaikoは、原作漫画の大ファンでした。1巻を読んで衝撃を受け、ライブのMCで内容を全部話してしまったほど好きだったと語っています。
aikoは、映画の予告CM用には別の曲が決まっていましたが、「この映画には、この曲がいい」と思って直前で「恋をしたのは」に変更してもらったという経緯があります。この曲は映画の話をいただく前、2015年頃に書かれていましたが、2コーラス目を書く際には頭の片隅に「聲の形」があったため、無意識にリンクしていたところがあると述べています。
映画で使用されているのは2コーラス目で、不器用で、もどかしいけど伝えたいことがあふれている将也と硝子の物語に寄り添う楽曲となっています。
立川シネマシティ極上音響上映|音へのこだわり
公開から2か月半が経過した2016年12月31日から、東京都立川市の立川シネマシティにて「極上音響上映」が実施されました。この劇場は独自の音響システムを導入し、音へのこだわりも強く持つことで知られています。
この上映では、音響監督を務めた鶴岡陽太、音楽の牛尾憲輔、そして監督の山田尚子が直接劇場に赴き、音響の調整や監修を行いました。このことからも、本作がいかに音響面にこだわって制作されたかがわかります。
Blu-ray版には、通常のヘッドフォンでも映画館で鑑賞しているような臨場感のあるサラウンド音声が楽しめる「DTS Headphone:X」での収録も付録として用意されました。
原作への愛情と敬意|お嫁にもらう覚悟
山田監督は原作ものをアニメ化する際のスタンスについて、「原作ファンの人とずれてしまう」ことの怖さを語っています。原作のファンは、自分だけの声や動きでキャラクターをイメージしているため、それとアニメが固定的に表現するイメージがずれる可能性があるというのです。
では、どうしたか。山田監督は「自分が一番のファンになろう。ファンの人よりファンになろう」ということを心掛けたと述べています。またユーザーの意見はあまり見ないようにしており、ユーザーに引っ張られるのではなく、こっちが引っぱっていくようにしたいとも語っています。
「聲の形」制作時のインタビューでは、「タイトルが持っている魅力をきちんとプロデュースすること」「作品への愛情と敬意を持った上で、一度全部を解体して一本の映画として再構築しないと映画を作ったとは言えない」と答えています。そして「決意としては原作をお嫁にもらう覚悟に近かった。お嫁にもらう限りは絶対に不幸にはしないという覚悟を持って制作に臨んだ」という言葉は、山田監督の本作に対する並々ならぬ思いを示しています。
声優の芝居|自然な会話を目指して
入野自由は、将也を演じるにあたってのテーマの一つとして「できるだけ自然に会話をしていくこと」を挙げています。しかし同時に「まずアニメーションであることが前提。ごく自然なトーンでセリフを言ったとして、それが映像にのったときにお客さんにどう伝わるのかを考えなくてはならない。そのバランスは必要」とも述べています。
早見沙織の硝子役、悠木碧の結絃役など、実力派声優陣が揃いましたが、特に出色なのは結絃を演じた悠木碧だと評されています。少年や少女のような型を超えて、地に足ついた人間の存在感が最も強いキャラクターに仕立て上げたと言われています。
滝修行とトカゲの鳴き声|制作の舞台裏
興味深いエピソードとして、山田監督は映画「たまこラブストーリー」の絵コンテ作業前に山に籠り、滝修行をしていたというものがあります。後に山田は「山の中で毎日毎日、今まで聞いたこともなかったトカゲの鳴き声が聞こえて怖かった。でもいいところでした」と振り返っています。
このような独特の創作プロセスを経て、山田監督は作品を生み出しているのです。アニメーションの良さについて、山田監督は「魂が宿る瞬間を見られること」と答えています。一コマ一コマに何かしら人間が手を加えて、コマが流れたときにはじめて動いて見える。その技術そのものに感動させられると述べています。
山田尚子監督と京都アニメーションによる「聲の形」は、単なる原作の映像化ではなく、映画として独立した芸術作品として再構築された傑作です。極限値というコンセプト、一人称視点のカメラワーク、生命の肯定という哲学、音楽へのこだわり、そして原作への深い愛情。これらすべてが融合して、観る者の心に深く刻まれる作品が誕生したのです。



