『もしもこの世が舞台なら』が問う芸術と人生|演劇が示す生きる意味と協働の価値 ドラマ映画アニメ★考察ラボ

『もしもこの世が舞台なら』が問う芸術と人生|演劇が示す生きる意味と協働の価値

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演劇を通じて問う人生の本質と協働の価値

ドラマ『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』は、表面的には1984年の渋谷を舞台にした演劇青春群像劇だが、その深層には普遍的なテーマ——芸術と商業のジレンマ、協働の重要性、自己実現と他者への配慮のバランス、そして人生という舞台をどう生きるか——が描かれている。三谷幸喜が自身の体験をベースに描いた本作は、演劇という特殊な世界を通じて、現代社会が抱える問題にも光を当てている。本記事では、本作が扱う社会的テーマを多角的に分析していく。

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芸術と商業のジレンマ——理想と現実の狭間

本作が提示する最も重要なテーマの一つが、芸術と商業のジレンマである。久部三成(菅田将暉)は、理想のシェイクスピア劇を作ろうと奮闘する。彼にとって、芸術的完成度こそが全てであり、妥協は許されない。しかし、演劇は経済活動でもある。劇場を借りるにはお金がかかり、スタッフや役者にも報酬を払わなければならない。観客が来なければ、次の公演は打てない。この現実と、久部の理想主義が衝突する。「お金のことさえ言わなければ一生文化祭の劇団員最高かも」という視聴者のコメントは、この問題を端的に表現している。演劇は、芸術であると同時にビジネスでもある。この二つの側面をどうバランスさせるかが、演劇人の永遠の課題である。

三谷幸喜自身も、この問題に直面してきた。彼は、商業的に成功しながらも、芸術的な質を保つことに成功した稀有な脚本家である。しかし、その道のりは平坦ではなかっただろう。本作は、三谷の若き日の葛藤を描くことで、この普遍的な問題を提示している。芸術家は、自分の理想を追求するべきか、それとも観客や市場の要求に応えるべきか——この問いに簡単な答えはない。しかし、重要なのは、両者のバランスを取ることである。純粋な芸術性だけでは、持続可能な創作活動はできない。逆に、商業性だけを追求すれば、芸術的な価値は失われる。久部が学ぶべきなのは、この微妙なバランスである。作品は、この問題を通じて、現代のクリエイターたちにも重要なメッセージを送っている。芸術と商業は対立するものではなく、両立可能であり、むしろ両立させることが創作者の責任なのだと。

協働の重要性——一人では成し遂げられない舞台

本作のもう一つの核となるテーマが、協働の重要性である。久部三成は、最初、演劇を自分一人の表現だと考えている。役者やスタッフは、自分の理想を実現するための道具に過ぎない——この傲慢な態度が、彼を劇団から追放させる。しかし、演劇は決して一人では成立しない。脚本家、演出家、役者、照明、音響、衣装、舞台美術——多くの人々の協力があって初めて、一つの舞台が完成する。そして、最も重要なのは、観客の存在である。観客がいなければ、演劇は成立しない。この協働の精神を、久部は八分坂で学んでいく。様々な人々と出会い、彼らの視点を理解することで、久部は徐々に変わっていく。一人で完璧な作品を作るよりも、皆で協力して良い作品を作る方が、はるかに価値がある——この真理に、久部は気づいていく。

この協働のテーマは、現代社会においても極めて重要である。個人主義が強調される現代において、私たちはしばしば「一人で何でもできる」という幻想を抱く。しかし、実際には、どんな仕事も他者との協力なしには成立しない。ビジネス、教育、医療、あらゆる分野で、協働は不可欠である。本作は、演劇という舞台を通じて、この協働の価値を描いている。久部が学ぶのは、単に演劇の技術ではなく、人間関係の築き方、他者への敬意、そしてチームワークの重要性である。これらは、演劇に限らず、人生全般に必要なスキルである。三谷幸喜は、自身の経験から、協働の難しさと美しさを知っている。そして、その教訓を視聴者に伝えようとしている。『もしもこの世が舞台なら』は、協働というテーマを通じて、現代社会における人間関係のあり方を問いかけている。

1980年代小劇場ブーム——あの時代が持っていたエネルギー

本作の舞台である1984年は、日本の小劇場ブームの真っ只中である。つかこうへい、野田秀樹、鴻上尚史、三谷幸喜自身——多くの才能がこの時代に頭角を現した。小劇場は、大手の商業演劇とは異なり、実験的で前衛的な作品を上演する場であった。予算は限られているが、自由度は高い。若い演劇人たちは、この自由を武器に、既成概念を打ち破る作品を次々と生み出した。本作は、この熱気に満ちた時代への郷愁と、その時代を生きた若者たちへのオマージュである。しかし、三谷は単なるノスタルジーではなく、その時代の問題点も描いている。小劇場は、経済的には厳しく、多くの劇団が資金難に苦しんでいた。また、芸術至上主義が、時として人間関係を犠牲にすることもあった。本作は、その光と影の両方を描いている。

興味深いのは、視聴者の反応が「演劇経験者」と「未経験者」で分かれている点である。演劇経験者からは「リアルタイムで上京して演劇を観ていた者としては面白い」「意外な面白さ。平均年齢高めの冴えないおとな達の話なのに青春ドラマみたいなワクワク感がある」といった肯定的な評価が寄せられている。一方で、「他のどれだけの人がこれを面白いと思えるのか疑問」「肝心の舞台がどんな仕上がりか見られないので、主人公のくべの才能や情熱がいまいち見えてこない」という批判的な意見もある。この評価の分裂は、本作が扱っているテーマの特殊性を示している。演劇という世界は、内部にいる人々にとっては魅力的だが、外部の人々には理解しにくい側面がある。三谷は、この壁を越えようと試みているが、完全には成功していないかもしれない。しかし、この挑戦自体が、作品の価値である。

人生という舞台——本当の自分でいられる場所はどこか

本作のタイトル「もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう」は、深い哲学的問いを含んでいる。シェイクスピアの『お気に召すまま』では、「全てこの世は舞台、人は皆役者に過ぎぬ」と述べられている。人生を舞台に喩え、人間は皆、何らかの役割を演じているという世界観である。この比喩は、社会学や心理学でも使われる概念であり、「役割理論」として知られている。私たちは、親として、子として、会社員として、友人として、様々な役割を演じている。しかし、三谷はさらに問いかける——「もし人生が舞台なら、楽屋(バックステージ)はどこにあるのか」。楽屋とは、役者が素に戻る場所、仮面を外す場所である。人生という舞台において、私たちは常に何らかの役割を演じているが、本当の自分でいられる場所(楽屋)はどこにあるのか。

この問いは、現代社会において特に切実である。SNSの普及により、私たちは常に「見られる」存在となった。オンラインでもオフラインでも、私たちは何らかのペルソナを演じている。本当の自分を出せる場所は、どんどん少なくなっている。本作は、この現代的な問題にも触れている。久部は、演劇という舞台で自分を表現しようとするが、その過程で、本当の自分とは何かを問われる。彼が追求する「理想のシェイクスピア劇」は、実は彼自身の内面の投影なのかもしれない。演劇という表現を通じて、久部は自分自身と向き合っている。この自己探求の旅が、本作の重要なテーマである。三谷幸喜は、観客に問いかける——あなたの楽屋はどこにあるのか? 本当の自分でいられる場所を、あなたは持っているか? この問いへの答えは、人それぞれ異なるだろう。しかし、その問いを考えること自体が、人生を豊かにするのである。

三谷幸喜が伝えたいメッセージ——演劇と人生の交差点

本作を通じて、三谷幸喜が最も伝えたいのは、演劇が人生の比喩であり、人生が演劇の比喩であるということだろう。演劇は、限られた時間と空間の中で、人間の本質を描き出す芸術である。そして、人生もまた、限られた時間の中で、自分という役を演じることである。演劇を通じて、私たちは人生を理解し、人生を通じて、演劇の意味を知る。この循環的な関係が、本作の核心である。三谷は、自身の青春時代を描くことで、演劇の魅力を伝えようとしている。しかし同時に、演劇に限らず、何かに情熱を傾けることの素晴らしさも伝えている。久部が演劇に捧げる情熱は、スポーツでも、学問でも、ビジネスでも、同じように存在しうる。何かを本気で追求すること——それが、人生を豊かにするのだ。

また、三谷は「完璧」よりも「誠実」を重視している。久部が追求する「理想のシェイクスピア劇」は、もしかしたら完成しないかもしれない。しかし、その過程で学んだこと、出会った人々、経験した喜びと苦しみ——これらが本当の財産である。結果よりもプロセスが重要だという、この古典的だが普遍的なメッセージが、作品全体に流れている。『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』は、三谷幸喜から視聴者への贈り物である。自分の青春時代を赤裸々に描くことで、三谷は、同じように何かに情熱を傾けるすべての人々にエールを送っている。そして、演劇という特殊な世界を通じて、人生という普遍的なテーマを描いている。この作品を観ることで、視聴者は自分自身の人生について、改めて考えるきっかけを得るだろう。

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まとめ

ドラマ『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』は、芸術と商業のジレンマ、協働の重要性、1980年代小劇場ブームの意義、そして人生という舞台での役割という、普遍的なテーマを扱っている。演劇という特殊な世界を通じて、三谷幸喜は現代社会が抱える問題にも光を当てている。視聴者の評価は分かれているが、その分裂自体が作品の挑戦的な性格を示している。本作は、三谷幸喜から視聴者への問いかけであり、贈り物なのである。

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