京都アニメーションが挑んだ重厚なテーマ
2016年9月17日に全国120館で公開された映画「聲の形」は、京都アニメーション制作、山田尚子監督による劇場アニメーション作品である。大今良時による同名漫画を原作とし、聴覚障害を持つ少女・西宮硝子と、小学生時代に硝子をいじめていた少年・石田将也の再会と再生を描いた青春群像劇である。上映時間は129分で、配給は松竹が担当した。公開館数は120館と小規模ながら、累計動員177万人を突破し、興行収入は23億円を達成するという大ヒットを記録した。
本作は第40回日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞、第26回日本映画批評家大賞アニメーション部門作品賞、第20回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞、東京アニメアワードフェスティバル2017アニメ オブ ザ イヤー作品賞 劇場映画部門グランプリなど、数々の賞を受賞している。単なるエンターテインメント作品を超えて、社会的なメッセージ性を持つ作品として、幅広い層から高い評価を受けた。脚本は吉田玲子が担当し、キャラクターデザインは西屋太志、音楽は牛尾憲輔が手掛けている。
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物語の構造と時間軸
映画「聲の形」の物語は、大きく分けて小学生時代と高校生時代の二つのパートで構成されている。冒頭では高校生になった将也が自殺を考えるシーンから始まり、そこから小学生時代の回想へと移行する構成となっている。小学生の石田将也のクラスに、先天性の聴覚障害を持つ西宮硝子が転校してくる。最初は好奇心から硝子に興味を抱いた将也だったが、コミュニケーションの難しさから次第に硝子をいじめるようになり、そのいじめがエスカレートしていく。
硝子の補聴器を何度も紛失させてしまったことをきっかけに学級会が開かれ、将也は教師やクラスメイトから糾弾される。それまで一緒になって硝子をいじめていた友人たちは手のひらを返し、今度は将也がいじめの標的となる。親は補聴器の弁償金170万円を支払わなければならず、将也は周囲から完全に孤立してしまう。この小学生時代のパートは、いじめの加害者がいかにして被害者となるかという、いじめ問題の構造的な側面を鋭く描いている。
高校生になった将也の贖罪と再生
物語は5年後、高校生になった将也の姿を映し出す。将也の視界に入る人々の顔には「×印」がついており、彼が他者とのコミュニケーションを拒絶し、心を完全に閉ざしていることが視覚的に表現される。将也はアルバイトで稼いだお金で親に補聴器代を全額返済し、身辺整理を行う。これは自殺の準備であり、将也は一度は自殺を試みるものの、実行することができずに家に戻ってくる。
死ぬ前に過去の清算をしようと決意した将也は、硝子が通う手話サークルを訪れ、小学校時代に硝子が大切にしていた筆談ノートを返しに行く。そこで硝子と再会した将也は、彼女に友達になりたいと伝える。この再会をきっかけに、将也の周りには少しずつ人が集まり始める。同級生の永束友宏、硝子の妹である西宮結絃、そして小学校時代のクラスメイトたちとも再び関わるようになっていく。
いじめ問題の再燃と人間関係の複雑さ
しかし、過去のいじめ問題は簡単には清算できない。小学校時代のいじめに関わった植野直花、川井みき、佐原みよこといった人物たちが再登場し、それぞれの立場から当時の出来事を語る。彼らもまた、過去の出来事に何らかの形で傷ついており、単純な加害者・被害者の構図では語れない複雑な人間関係が浮かび上がってくる。特に植野は、将也に対して複雑な感情を抱いており、硝子に対しても否定的な態度を取り続ける。
一度は集まった友人たちだったが、小学校時代のいじめ問題が蒸し返されることで、それぞれが互いを責め立て、グループは決裂してしまう。将也も再び周囲の人間を拒絶するようになり、顔の「×印」が再び現れる。この展開は、過去の傷を癒すことの困難さと、真の和解がいかに難しいかを示している。それでも将也は、硝子や結絃との交流だけは続け、少しずつ前に進もうとする姿勢を見せる。
硝子の自己否定と将也の決意
物語のクライマックスでは、硝子が自分が将也の不幸の原因だと思い込み、自殺を図ろうとする。将也はそれを止めようとして硝子を助けるが、その代わりに自らが川に転落し、意識不明の重体となる。この事件を通じて、硝子は自分の存在価値を再認識し、将也は硝子を救うことで自分自身の生きる意味を見出す。二人の関係は、単なる贖罪を超えて、互いを必要とする深い絆へと変化していく。
将也が意識を取り戻した後、物語は文化祭のシーンへと移る。将也は再び友人たちと向き合い、過去の過ちを認めながらも、これからを生きていくことを決意する。そして、他者の顔についていた「×印」が次々と剥がれ落ちていく。この象徴的な演出は、将也が他者を受け入れ、世界に対して心を開いたことを示している。映画は、将也が涙を流しながら「生きるのを手伝ってほしい」と願う場面で幕を閉じる。
文部科学省とのタイアップと社会的影響
映画「聲の形」は、文部科学省とのタイアップ作品としても注目を集めた。2016年9月2日、文部科学省は映画の公開に合わせて、いじめや自殺などの子供のSOSに対する取り組み、および障害のある子供への特別支援教育の啓発を目的とした連携を発表した。松竹の協力のもと、タイアップポスターが作成され、全国の小学校・中学校・義務教育学校・高等学校・中等教育学校および特別支援学校に各2枚、合計約8万枚が配布された。
ポスターには、将也が硝子に何かを伝えようとしているイラストが使用され、吹き出しの中は空白となっており、観る者に「誰に、何を伝えますか?」と問いかける内容となっていた。また、文部科学省による特設サイトも公開され、作品を通じて子供たちに「勇気をもって心の声を伝えよう」というメッセージが発信された。政府機関がアニメーション映画とタイアップして教育的メッセージを発信するという取り組みは、当時としても画期的なものであった。
地方自治体との連携と聖地巡礼
作品の舞台モデルとなった岐阜県大垣市も、映画公開に合わせて積極的な取り組みを行った。2015年11月、劇場アニメ化の発表に合わせて、大垣市は漫画「聲の形」に登場するシーンを紹介する観光マップとクリアファイルを作成し、インターネット上でも情報発信を開始した。2016年9月2日から10月2日までの期間には、「映画『聲の形』スタンプラリー」が開催され、作品に登場する場所を巡るファンで賑わった。
同じ期間、「クールおおがき推進事業」の一環として、漫画「聲の形」の原画などを展示する「コミックタウンギャラリーおおがき2016」が、奥の細道むすびの地記念館など大垣市街地一帯で開催された。また、2016年9月11日には、FC岐阜対ジェフユナイテッド千葉戦に合わせて行われた大垣市・養老町ホームタウンデーにおいて、映画とのコラボグッズ販売が実施されるなど、地域を挙げての盛り上がりを見せた。
養老鉄道とのコラボレーション
劇中でも重要な舞台として登場する養老鉄道は、2017年2月12日より、映画に登場するシーンをデザインした記念切符・記念入場券を発売した。また同年2月19日からは、ポストカード・クリアファイルも発売され、ファンの間で人気を集めた。養老鉄道の駅や車両は、作品の重要なシーンで何度も登場し、将也と硝子の関係性を象徴する場所として描かれている。聖地巡礼で訪れるファンにとって、養老鉄道に実際に乗車することは、作品世界を体験する重要な要素となっている。
神奈川県との手話普及推進コラボレーション
神奈川県は、2015年4月に施行した神奈川県手話言語条例に基づき、手話普及推進を図るため、本作とコラボレーションしたリーフレットを発行した。2016年9月10日には「神奈川県手話普及推進イベント」を開催し、映画本編の先行上映会を実施。上映後には手話講習会などが行われ、参加者が手話について学ぶ機会が提供された。また、2016年11月発行の「県のたより11月号」では、一面に大きく「聲の形」のイラストを掲載し、「手話は、大切な言葉です」というフレーズとともに手話の重要性を訴えた。
さらに、埼玉県三郷市も2017年4月1日施行の「三郷市こころつながる手話言語条例」啓発のため、市の広報紙「広報みさと」平成29年3月号に「聲の形」イラストを多用した記事を掲載した。このように、複数の自治体が「聲の形」を手話や障害者理解の普及啓発に活用したことは、作品が持つ社会的意義の大きさを示している。
京都アニメーション関連作品との同時上映イベント
映画の公開を記念して、MOVIX京都では2016年8月29日から9月2日まで、新宿ピカデリーでは9月5日から9月9日までの期間、京都アニメーション関連作品の5夜連続特別上映が行われた。上映された作品は「映画けいおん!」「響け!ユーフォニアム」「劇場版 響け!ユーフォニアム」「たまこまーけっと」「たまこラブストーリー」の5作品である。これらはいずれも京都アニメーションを代表する作品であり、山田尚子監督が手掛けた作品も含まれている。
この特別上映イベントは、京都アニメーションの作品世界と山田尚子監督の演出スタイルを知る上で貴重な機会となった。特に「たまこラブストーリー」は、山田監督と脚本の吉田玲子が組んだ前作であり、「聲の形」と共通する繊細な心理描写や美しい映像表現が見られる作品である。このイベントを通じて、「聲の形」が京都アニメーションと山田尚子監督の集大成的な作品であることが改めて認識された。
主題歌と音楽が生み出す感動
映画「聲の形」の主題歌は、aikoの楽曲「恋をしたのは」が使用された。この曲は、将也と硝子の不器用な恋愛感情を優しく歌い上げており、エンドロールで流れる際には多くの観客の涙を誘った。aikoは山田尚子監督からのオファーを受けて楽曲を書き下ろし、作品の世界観を深く理解した上で歌詞とメロディを紡いだ。山田監督も、aikoの声が作品に形を与える無二の代弁者であり、エンドロールの余韻までをメッセージにしてしまう素晴らしいものだったと語っている。
劇伴音楽を担当した牛尾憲輔は、本作で初めて京都アニメーション作品に参加した。牛尾は、将也と硝子をはじめとする登場人物一人ひとりの感情の変化を音楽で表現することに注力し、繊細かつ印象的な楽曲を数多く生み出した。特に「lit」や「speed of youth」といった楽曲は、青春の儚さと美しさを音楽で見事に表現している。Blu-ray初回限定版には、「恋をしたのは」と「speed of youth」のそれぞれに沿った新規描き下ろしアニメーションが2本収録され、ファンから高い評価を得た。
声優陣の熱演
主人公の石田将也役には、オーディションを経て入野自由が起用された。入野は将也について、単純に内気なキャラクターではなく、したいけどできない、うれしいのにうまく表現できないといった、二つのベクトルに引き裂かれているキャラクターだと分析し、そのバランスを意識して演じたと語っている。また、アフレコのテーマの一つとして、できるだけ自然に会話をしていくことを挙げ、アニメーションとして映像に乗ったときに観客にどう伝わるかを常に考えたという。
西宮硝子役の早見沙織は、聴覚障害を持つキャラクターの声を演じるにあたり、不明瞭な発音や独特のリズムを表現することに苦心した。硝子は手話や筆談を主なコミュニケーション手段としているが、声を出すシーンもあり、その際の声の出し方や感情の込め方について、監督やスタッフと綿密な打ち合わせを重ねた。小学生時代の将也役を俳優の松岡茉優が演じたことも話題となり、子供特有の無邪気さと残酷さを見事に表現した。
興行的成功と批評家からの評価
映画「聲の形」は、公開館数120館という小規模公開でありながら、最終的に興行収入23億円を突破し、2016年度の日本映画全体の興収ランキングで第10位、松竹配給作品では第1位という記録を収めた。同時期に公開されていた「君の名は。」が社会現象となる大ヒットを記録する中、「聲の形」も独自の魅力で観客を引きつけ、ロングラン上映を実現した。口コミやSNSでの高評価が広がり、公開から数週間経っても観客動員が衰えなかったことが、この成功の要因となった。
批評家からの評価も極めて高く、日本アカデミー賞や文化庁メディア芸術祭など、権威ある賞を次々と受賞した。特に評価されたのは、いじめや障害といった重いテーマを扱いながら、説教臭くならず、登場人物の心理を丁寧に描いた点である。また、京都アニメーションの高い作画技術と、山田尚子監督の繊細な演出が見事に融合し、アニメーション表現の新たな可能性を示した作品としても高く評価された。
海外での評価と展開
「聲の形」は国内だけでなく、海外でも高い評価を受けた。2017年のアヌシー国際アニメーション映画祭では長編コンペティション部門に選出され、世界中のアニメーションファンの注目を集めた。英語圏では「A Silent Voice」というタイトルで上映され、聴覚障害やいじめといった普遍的なテーマが、文化の違いを超えて多くの観客の心に響いた。特に欧米では、日本のアニメーション映画が単なるエンターテインメントを超えて、社会問題を真摯に描く作品として再認識されるきっかけとなった。
テレビ放送とメディア展開
映画「聲の形」は劇場公開後、様々なメディアで展開された。地上波初放送は2017年8月25日にNHK Eテレで行われ、多くの視聴者に作品を届ける機会となった。その後も、2020年7月31日には日本テレビ系「金曜ロードSHOW!」で放送され、2024年8月16日にも再び「金曜ロードショー」で放送されるなど、定期的にテレビ放送が行われている。これらの放送を通じて、劇場では観ることができなかった層にも作品が届き、新たなファンを獲得し続けている。
公式ノベライズは、川崎美羽によって執筆され、2016年9月16日に上巻、同年11月17日に下巻が講談社KCデラックス ラノベ文庫から発売された。また、オトバンクのFeBeにてオーディオブック化もされており、倉本夏海のナレーションで2017年7月31日に上巻、10月6日に下巻が配信された。さらに、2023年10月4日から8日にかけて、イッツフォーリーズ公演によるミュージカル「聲の形」がサンシャイン劇場にて上演され、舞台作品としても新たな命を吹き込まれている。
Blu-ray・DVD発売と特典映像
Blu-ray・DVDは2017年5月17日に発売された。発売元は京都アニメーション・映画聲の形製作委員会、販売元はポニーキャニオンである。Blu-ray初回限定版には、aikoによる主題歌「恋をしたのは」と、牛尾憲輔による劇伴曲「speed of youth」のそれぞれに沿った新規描き下ろしアニメーションが2本収録されている。山田尚子監督は、aikoの楽曲と映像で共演したいとずっと思っていたこと、青春としての「聲の形」に今一度向き合いたくなったことを語っている。
また、Blu-ray版に共通する音声特典として、出演者やスタッフによるオーディオコメンタリーのほか、通常のヘッドフォンでも映画館で鑑賞しているような臨場感のあるサラウンド音声が楽しめる、「DTS Headphone:X」での収録が付録されている。これらの特典により、自宅でも映画館に近い臨場感で作品を楽しむことができ、ファンから高い評価を得ている。
作品が社会に与えた影響
映画「聲の形」は、エンターテインメント作品として成功しただけでなく、社会的な議論を喚起する作品としても大きな役割を果たした。いじめ問題について、加害者も被害者も、そして傍観者も、それぞれが抱える苦しみや葛藤を描いたことで、いじめを単純な善悪の問題として片付けることの危険性を示した。また、聴覚障害者とのコミュニケーションの難しさと大切さを描いたことで、障害者理解の促進にも貢献した。
文部科学省や地方自治体が教育啓発に活用したことは、作品が単なるフィクションを超えて、実社会に影響を与えうる力を持っていることを証明している。特に、手話や障害者理解に関する取り組みにおいて、「聲の形」は重要な教材として位置づけられている。学校現場でも、いじめ防止や障害者理解の授業で本作が取り上げられることがあり、子供たちが他者への理解を深めるきっかけとなっている。
京都アニメーションの代表作として
映画「聲の形」は、京都アニメーションの代表作の一つとして、同社の歴史に刻まれている。2019年7月18日に発生した京都アニメーション第1スタジオ放火殺人事件は、日本のアニメーション業界に大きな衝撃を与えたが、「聲の形」をはじめとする京都アニメーションの作品群は、その後も多くの人々に愛され続けている。本作に込められた、人と人との繋がりの大切さ、コミュニケーションの難しさと尊さというメッセージは、時代を超えて普遍的な価値を持ち続けるだろう。






